先の例会で8月に豊田町、菊川町、豊浦町、勝山地区の中世の山城、城郭のシンポジウムが予定されていました。
3月に勝山地区の人が作られた勝山三山のパンフレット一部持ってこられたとの事でしたが、登る人しか渡せないとのことだったので、早速勝山三山守る会の会長宅に伺って頂きました。
勝山三山とは、勝山(且山)四王司山青山(長門富士)です。
ブログで勝山、四王司は載せましたので、今回は残りの青山(288m)を語ります。
青山はこの地域の豪族青山弾正の山城でした。
東の四王司山から流れる川、西の内日から流れる川、この2つの川が青山にとっては
生命線のようなもので、この川を守るため勝山に城を築き、弟の源三郎に守らせた
源三郎は病弱だったので、重臣の高森正倫を補佐につけます。
青山弾正が亡くなると子供が青山弾正として後を継ぎますが幼少のため、叔父源三郎は高森正倫に勝山を預け、青山城に移って弾正の後見役として務めますが、永正12年(1515)
2月7日、高森正倫と石原の津原善勝の謀反によって、川の水源も敵におさえられ、
どうすることも出来ず、源三郎は弾正を刺し殺し自分も自刃します。
高森と共謀した津原善勝は王司稲積山の大内の家臣で後に永正17年(1520)出家して
善勝寺の寺号をもらっています。
高森正倫は勝山城から青山城に本拠を移しますが、大内30代 大内義興は長門主護代
内藤興盛を勝山に九州の少弐氏 大友氏の進攻に備えて入る様命じられず、
勝山に入った内藤に不満を持った高森と津原は勝山を攻めるも周防守護代 陶氏が兵を
送った為、津原は降伏、大内勢は青山を攻め、高森正倫は首をはねられたということです。
次回は考古学を少し·····
次回の更新は5月7日(火)です。お楽しみに!