歴史ある山

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皆様、あけましておめでとうございます。

1月5日(土)は初寅の日です。

4日(金)の夜11時より勝山御殿跡から四王司山(392m)に参拝と体力試しを兼ねて登ります。

今回はこの山の側にある勝山(361m)を語ります。

この山は長門国守護代[内藤興盛]が山城を築きます。

この時は且山(かつやま)と呼ばれていましたが、後に勝山と呼ばれるようになりました。

天文20年(1551年)9月1日西国の大名31代大内義隆が家臣の陶 隆房(すえたかふさ

 後の晴賢)の謀叛によって山口を追われ長門の大寧寺(だいねいじ)で自刃します。

陶 晴賢は大内氏再興の為、大内義隆の養子だった豊後国の守護大友義鎮(よししげ 後の

宗麟)の異母弟大友八郎晴英に大内氏の家督を相続させて大内義長と改名します。

その後、陶 晴賢は毛利元就によって弘治元年(1551年)広島の厳島の合戦に敗れます。

大内義長は内藤隆世とともに最後は且山(勝山)に逃れて戦いますが、毛利の大軍に

追いつめられますが、毛利方の藤原貞俊に義長の命は助けるので内藤隆世は切腹して

降伏するようにすすめられます。

隆世は自刃し、義長は10数人を連れて下城して長府の長福院(現在の功山寺)に身を

寄せましたが約束を破棄した毛利元就によって弘治3年(1557年)4月3日毛利軍に包囲され

自刃。

陶 晴賢の末子鶴寿丸も殺害され大内氏、陶氏共に絶えてしまい勝山は大内氏終焉の地と

なります。

山の中には当時の石垣が残っていますが、この山を登るときは登山道がわかりにくいので

注意してください。

 

次回の更新は1月日(金)です。お楽しみに!